昭和45年12月02日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじやと思い、一心に信心してゆけばそこからおかげが受けられる。」
私はこのそこからおかげが受けられると言うこと。これはその事と言う事じゃない。願っておるその事ではなくて、そこからおかげが受けられる。私は今日御祈念中にテレビでね、コマーシャルの新栄商事という、新しく栄える商事と言う、あれがこの頃時々見ます。毎日あっておるんでしょうけれど。昨日でしたかね、新栄商事か何かそんな風な事を言ってますね。新しく栄える何か商事会社の、そういう意味の事なんですよ。
新栄商事と言う事はだから、新栄という事であろうと思う。新しく栄えると言う事だと。私は信心して行けば、そこからおかげが受けられるという事は、そう言う事だと思うですね。そこからおかげが受けられると。日に月に栄えて行く新しく栄えて行くと。私その、今日の四十二節の御理解はそこの、新しく栄えて行くという、いわば信心のキーポイントになるところ。いわゆる肝心要の所が、教えてあると思います。
ですからその事がおかげを頂くと言う事やらはね、だからじゃないんです。今だからお願いしとる事が成就したと。お取次を頂いてから、こげなおかげを頂いたと、そういう様な断片的な、いわばおかげではなくて、本当にお互いが願いに願っておる、日に月にいわゆる、日まさり月まさり年まさり、代まさりにおかげを頂いて行こうとする、信心の要のところ。ここを思い込ませて貰い。
ここを分かり切らせて頂けばと言う事だと思うです。ですからこれ程信心するのにどうして、こういう事が出来るであろうかと言う事をですね、是はやはり私共が一生の問題に取り上げて見てもです。信心しておっても、これは必ずあると言う事。生きておる印なんだだから。信心しておるからずうっと平穏無事と言う事じゃ、決してないです。雨もありゃ嵐もあると言うこと。
ですからまぁ頂きようでは、昨日頂きましたご理解の、言うなら反対な事ですね。それこそ、大地を叩くほどに間違いのない、是だけは絶対のものとして、言えれると言う様な御理解でした。昨日の朝の御理解。それは例えばここのところから頂くと、これ程信心するのに、どうしてこの様なと言う様な事が起こった場合です。そこんところを神様の御都合だとか、巡りのお取り払いだとか。
はぁお試しを受けておるとか、まぁ何とかその全てが事実なのだから。けどもそこんところをね、例えば言うても、信の薄き者には分からないと言う。だからそこんところを分からせて頂いてです。そこんところを元気な心で受けて行くという、または有難く受けて行くという生き方になれば、もうこれは絶対のもの。そういうどうしてこの様な事がと言う様な事のたんびに信心が大きくなる、おかげも大きくなる。
信心が深うなるおかげもやはり、太いものになって行くと。これは絶対のものだと。昨日頂いた、だからその反対の事が言える訳です。どうしてこの様な事が起こったであろうかと言う様な思い方が、もしそこにちらっとでもするならね。そらまぁ反省の意味に於いてなら良いでしょうよ。どうしてこう言う事が起こったであろうか。はぁという時にですね、何を神様が、分かれと言いござるじゃろうかと。
言う様な意味合いに於いてなら良いです。けどこがしこ信心しよるとに、どうして、こげな悲しいことが起こったじゃろうか、こんな困ったことが起こったじゃろうかという考え方は、昨日の朝の御理解の、いわば反対を行くところになる訳です。それはどういうことかと言うと、そういうね、どうしてこう言う事が出来るであろうかと思えば、信心はもう留まっておると仰る。
信心が留まっておると言うことは、もうおかげはそこで留まっておるという事なんです。もう少し言うなら、もう信心は、枯れておると言うことなんだ。だから、おかげも枯れる。もう理の当然のことなんだ。まぁこの四十二節と、私が今日言うた新栄と言う事ですね、新しく栄えて行くという。それは新栄商事のコマーシャルの中の言葉に使っておる様にです。まぁ例えば確か日の出の勢いか、何かそういう様な言葉を、ちょっと枕に使ってありましたですね。
何とかの新栄商事と歌がある。何とかの新栄商事と歌もあります。コマーシャルソングです。ですから所謂私共が日に月に、日まさり月まさり年まさり代まさり、親の代より子の代にと繁盛して行くと言う所はです、ここの所の思い込みが出来る。だからそういうおかげの頂けれる、キーポイントになる所ですこの四十二節は。言わば末広のおかげを頂くと言う、末広いわゆる扇子なら扇子の、一番肝心要の所になるち言う事。
ですから例えば信心は薄いけれども、信心はしよらんけれども繁盛しておる、末広がりになって行きよると言うのならね。これは大変な末広がりです。肝心要の所がぐちゃぐちゃだもん。だからそういうのは繁盛ではない。如何にも儲け出して行きよるとか、商売が繁盛して行きよってもです。それは決して本当の繁盛にはならん。日まさり月まさりの繁盛の元にはならない。ですからこれほど信心するのにと。
信心を例えばこれ程にしかも一家を挙げて、この様に熱心に信心をしておっても、この様な事がと言う様な事が起こってくると言う事はです。生きたおかげ言うならば生きておる印なのだと。まぁ悟るべきでしょうね。腹が痛んでも頭が痛んでも、本当に生きておる印だと。信心しよるとにどうしてこげん、腹ん痛かじゃろうか。信心するとにどうしてこげん、熱が出るじゃろうかと。それは生きておる印だから。
まずお礼を申し上げなければならないと言う事。今月の焦点であるところのその御礼と言うこと。為に精進する本当に私共が日々、神様の御守護を受けてです。先日からも頂きます様に本当に、金光大神が世界中の氏子に、おかげはやってあると仰る様な意味合いに於いての氏子ではなくて、取分け、金光大神のお取次を頂いて、おかげを受けて行くということは、信者氏子と呼びかけて下さる。
それはですね、本当に良くその事を心掛けさせて頂きよるとですね、この様な事にまで、神様がこの様な御守護を下さっておると言うね、ことばっかりなんですよ。これはだから一般氏子ではないち言う事。特別信者氏子としての上に、おかげを下さっておるおかげ。はぁ神様いうならば、この様な事が起きて来るという様な中にあってもです、その周囲を、こうやって見回してみるとですね。
こういう事が起こっておるけれども、神様が病むに病まれん働きがこれであって、実を言うたらその周囲には、この様な御守護と言うか、この様なお働きと言うものを受けておるんだなという事をです体験する事が出来る。ですからそういう日々の信仰体験と言うものがです、有難いというものになって行き、それが育って行っておりませんとですね。どうしてこの様な事が起きて来るであろうかと、例えば信心がそこに留まってしまうという方。信心が留まってしまうだけなら良いけれども信心が枯れ果てて行く。
そこから芽の出ようもなからなければ、伸びる可能性は無くなってくる。ところがその、私自身の心の中にですよ、銘々の心の中にです。これはまぁだ信心が足りんのだからという信心なんです。分かっておる様であるけれども、分かっていない。お粗末ご無礼なんかは、しよらんごたっても、お粗末ご無礼がある事に気付かせて頂いて、いよいよ信心を、いわゆる前向きの信心に進んで行くと。
是はまぁだ信心が足らんのだと思い、そこから一心になお一段と目の細かい信心へと進ませて頂くと言うこと。私共がねおかげを本当に頂きたい。信心が分かりたいと言う、信心欲に燃えておりますと、ここんところはよう味あわせて下さると言うか、体験に基づいての、おかげが現れてくる様に思いますですね。いわゆるそこから一心をまた一つ出し直さなければおられないと言うほどしのね。
昨日日田の綾部さんが、昨日は四時の御祈念に参っておられました。そして他にちょっと用事もございましたから。とうとうそのままお月次祭に残って、高芝さんと二人残っておられました。それが昨日ここへ出て見えられてから、先生お伺いがございますとこう言う。どういう事でしょうかと。二三日前にあちらのお店の方達が、みんな甘木の方に、野球に行かれた。野球をされる。
それであちらでまぁ相当御神酒をよばれて、帰って来よって車が正面衝突をした。もう、一から十までこちらの車が悪いて言うてある。あちらの番頭さん達は、皆銘々に自家用車を持ってるんですよね。それで皆がその番頭さん達が自分の車を使って、甘木に行ってる訳です。そしてその試合も済み一杯よばれて帰る途中であった。まぁ正面衝突でこちらの車は、相当そでたらしいですけれども、おかげを頂いて怪我人はない。
向こうもやっぱ飲酒運転であったらしい。それで話し合いでまぁ警察に届けないで、解決が付いたと言う事の、お礼のお届けがあった後です。先生最近私の方のまぁ言うなら、先日は経理の方を承っておる、一番番頭さん的な番頭さんが、是も自分の私用ではあるけれども夜中に、福岡に行っての帰り道に事故に合われた。是は大分長く入院されました。大変まぁそれこそ一晩中、堤防から落ちたままだったと言うですからね。
血みどろになって這いあがって来た所を、通りかかったハイヤーの運転手さんが助けて、病院に連れて行った。もうその時と同時に意識不明だった。という様な事があった。今度はまたこれも販売の方のでしょう、一番上に居られる番頭さんが事故を起こした。この頃綾部商店の上に次々と、そういう事が起きて来るのですけれどもね。私はあの番頭さん達に説明のしようがない。
まぁおかげ頂いて家は信心させて頂く様になって、一年間もう車に事故一つもないち言うのが、まぁ言うなら自慢のようにあったのが、それが自慢が、いわば出来なくなってきた訳です。だからどういう風に答えたら良いだろうかと、こういう訳です。そらまぁ、私は、答えなさらんが良かち。そればね、答えてこう言う訳だと、まぁ本当の事は分からんけれどもです。説明して向こうが分かれば良い。
昨日の御理解じゃないけれど、信薄き者には分からない。信心しよっても、やっぱり起きて来る事は起きて来るんだと。けれども考えて見れば考えて見るほど、ほんなら綾部さんとしてはです、ぞうたんのごつこげな大きな事故起こしとって、これくらいな怪我で済んだとか助かったとか。おかげで怪我一つしてないという様な、そこんところをね、はぁ大難を小難で、おかげを頂いたと、私は思いますけれども。
奥さんあなたが一生懸命参りなさいますばってん、こげなこつが起こるじゃないですかと、言う意味の事を言われた時に、そりゃこう言う訳よと言う、説明の方法がありゃせんかという訳なんです。そらありましょう。けれどもねそれではぁそげな訳ですかと言うて、ほんなら分からせたところで何になるか。信心など。そんなお伺いがあっとりましたら、あの里芋がね里芋がこう、それの里芋の芽がいっぱい出ているところを、小さい芽が出てるところを頂いた。
ですから是は神様が、愈々綾部さん土の信心を必要となさり、土の信心を是は社長であるあなたに求めておられる所だなと、私は申しました。氏子がどうぞおかげを頂かせて下さいと願う。どうぞ御祈念の言葉の中にも、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂かせて下さい。と言うて願うから神が本気になってです、願いよるごたるから本気になって神が立ちあがる。と氏子はもうこれで結構ですと言わんばかりにですね。
それを押しやる様な事をするという意味の事を、生神金光様は仰っておられます。ただその、一場面、一場面と申しましょうか。目先目先の、その事と申しましょうか。お取次を頂いて、まぁ不思議な事じゃある、こういうおかげを頂くと言うおかげではなくて、信心をさせて頂いて、信心に依ってです。いよいよ本当のおかげを頂きたい。本当のおかげと言うのは、日勝り月勝り、年勝り代勝りと言う様なおかげ。
金光大神は、そういう道を教えて下さる。金光様の信心は、そういう信心なんだと。そこまでに、到達するまでにです、目先目先のいわば、ご利益と言う事にもなってくるけれども。だから此の方の信心は災難よけや、病気治しの神ではない事になってくる。氏子が本気で、金光様のご信心によって本当の幸せ、本当のおかげを頂かせて頂きたいと言うて願うからそのために願うから、神様も立ち上がりなさる。
そういう事実もあるんですよ、だから。またおかげを受けて来とる者は、皆んなそうです。いうならば、天地に対する借金とでも申しましょうか。この借金があったんじゃ、幸せになれない。そこでまず貯まる事よりか、借金払いの方から、神様からまぁいうならば、めぐりのお取り払いの方から、かかって下さる訳なんです。だから例えばそういう、どうしてこの様なと言う時にはもう先ず、一番間違いのない事は、巡りのお取り払いを頂いて、有難いということなんだ。
やれいたや今みかげをと言う心なんだ。例えばそういう事実に直面させて頂いてもです。今日私が申します。その周辺をいっちょ眺めて見れて。信心させて頂いておれば、本当に、神様がこういう綿密なお働きの中に、これが起きておるんだなぁという事が分かる。まぁ例えば、綾部さんに言うならば、説明の仕方は、どげんでんある。私はこうするために、そげんところに行ってから、そげなこつしよるけんで、こげなこつになったつたいとも言えん事はない。
そのものズバリにすぱっとそれの心を、一遍で差し止める様な言い方もある事はある。この頃あんたもう合楽と、あげないろんな野球の、あんなまぁいうなら、愉快な野球の試合なんかもさせて頂いて、まぁた何日にしかならんとに行って。しかもそんなに酩酊してから、自動車の運転をする。そげなこつするけん、罰かぶるたいと言うて、ぽんと言えれんこともない。
例えば交通安全の祈願祭の時でも、例えばルールを守らずして起きて来た、例えば事故やら問題やらは、神様が知らんと仰ったじゃないのと言うてもええ。スピードを出し過ぎたとか、飲酒運転をしとったとかと。そういう事で起きて来るのならば、お気付けで頂くとが、一番間違いないよと言えんこともない。けれどもねそれを実はそう思いましたと。けれどもねいわゆるそ、夕べの御理解じゃないけれどもです。
思いやりと言う事。温かいという心。今までの私なら、そういう風に言うておったであろうけれどもです。これはまぁだ私の信心が、足りんのだという風に思わせて頂いたが、そう言う心の状態で相手にも、有難く分かって行くような説明はないものかという訳なんです。だからそういう説明はせん方が返って有難い。黙って祈ってやるが一番良いと、私は申しました。
そして神様あなたに、今こそ土の信心をいよいよ、求め給うておられる時だと、あなた自身分からせて頂くことだと。ぞっこん芽が出ておる。今のお知らせは、大繁盛のお知らせなんだ。今ほど何ち言うですかね、沢山こう芽が出るという訳ですね。だから芽が出なけりゃいかん。これにはやはり一つ、土をこれにかけて行かなければいかん。そこで土の信心です。それこそ滋味豊かな、そこに言い訳の一つもしたい事もあっても、黙ってその事を祈ってやらせて貰う、また祈らせて頂いておる。
お礼を申させて頂いておると、どこから湧いてくるか分からんほどしの、有難いものが頂けれるのだ。その有難い、その心がまたいよいよ、有難いのだという訳。ですからこれは、決して信心しよっても、こういう事が起こったから、恥ずかしいとか今までの、いうならば、家は、そういう事故一つないと言うても、ある意味で自慢するほどしに、おかげを頂いて来ておった時代が、もう過ぎた。神様が一段と信心を進めて下さる。
いよいよ日まさり月まさりのおかげを頂かせて下さる。今日の御理解で言うなら。程の、肝心要のところになる信心を、今こそ分からせておって下さるんだと気付かせて頂いたら、これが一番間違いがないでしょうねと言うて、お話したことです。そこで求められるのは、土の信心だと言うことである。どうしてまぁそこには、どうしてこういう事が起こったかと言う様なものが、少しやっぱある訳ですよね。
そこでです、これはまぁ、めぐりの取り払いとして有難いものだけれども、これはまぁだ信心が足りんのだと、思うところの信心が求められる訳ですね。そしてです、もう一から十までですもう一切が、神様のおかげぞと。直ぐ言えたり思えたり出来るだけの信心。これが日まさり、月まさりのおかげの頂けれる、いわゆる肝心要になるものである。ここのところを、私共が思い込み頂き込ませて頂くところからです。
そこからおかげが受けられるという事になる。だからそこからのおかげと言うのは、願っておる、その事ではなくて、そこから、おかげが受けられるという、いわゆる、新栄である。それこそ、昇る朝日の様にです。豊坂上りに上って行くところのおかげである。私は、そこんところをですね、一つ愈々そこの根本になるところを、はっきり頂き止めそれを信じきり、思い込ませて頂くところまで、一つ信じる。
思い込んだ信じきったから、ほんなら何も起きてこないかと言うと、決してそうじゃない。それは生きておる印。熱も出る腹も痛か。場合には怪我をするかも知れん。様々な事があろうけれどもです。それは生きておる印であると、悟らせて貰い分からせて貰うて、これはまぁだ、信心が足りんのだと思うて、そこからの信心の、おかげを頂いて行かねばならん。昨日の御理解の中にも申しました様に、杉尾光男さんの場合の様なおかげでも、そうである。もうその前日から、どうにもしようがない。
藁をも掴むと言う、おぼれる者は。けどもその掴む藁すらがない。ただ電話で何遍でも、どうにも出来ません、どうにも出来ません。お取次頂くだけより他に手がない。そういう様な、状態の中に。昨日一昨日でしたかね、昨日の晩、電話がかかって来た。今からそちらへ、食事をなさるなら、ちょっと待って下さいと。ウナギの蒲焼きを、沢山、買うちから、持って行きよりますからと言うことじゃった。
ところがもうそん時、ちょうど秋永先生、共励会から帰って見えて、先生と二人で頂きよるところへ電話がかかって来た。とてももう今晩な出来んたい。そう言いよるところへ、見えられました。沢山まぁあちらの何か大変、上手な美味しい蒲焼のお店のだったらしい。沢山ウナギの蒲焼を、お供えに持って見えられた。ちょうどその晩は頂けなかったもんですから、その翌日です。昨日一昨日の晩ですね。
裏の三十日の晩です。それこそ藁をも掴むと言うけれども、掴む藁すらがないと言うほどしのところを、おかげを頂いた。そこで大橋に行って今からお礼に出ろうと言うことで、お礼に出て見えられた。そこで前の晩のそのウナギを取ってあったから、まぁウナギで、言うなら一献頂いた。そん時に光男さんが言われることですよね。どうでも一つ、ウナギ上りのおかげを頂かんならんから、ウナギのお供えをしたという意味の事を言うておられます。どうでも、ウナギ上りにならにゃいかん。
じりじりであってもやはりそれがいわば、繁盛に繋がっていかなければいけない。そういう時にはです。例えばねそれこそ掴む藁もない様な中にあっても、他に心を迷わさなかった。もうただ一心に神様におすがりするだけであった。所謂是はまだ信心が足らんと思い、一心と信心をした訳です。そこからウナギ上りに、おかげは頂けて行く元が出来たと言う事は、神様の働きちゃ素晴らしいなぁという体験が生れた。是から先もまたあるだろう。けれどもこの調子を落とさずに。
どうしてこういう事が起こったじゃろうかという様な事を言わず、思わずです。一心と信心を神様の方へ向けて行くという、生きた信心をさせて頂く所からです。所謂肝心要のウナギ上りの元が出きる訳なんです。ですから今日はここで一心に信心をして行けば、そこからおかげは受けられるというのは、願っておる目先のその事ではなくて、日まさり月まさりのおかげの頂けれる、その元というものキーポイントになる所をです。私共がしっかり頂いて、分からせて頂いて。
どういう風な難儀の中にあっても、おかげぞと言えれる信心。是はもう神様の働きぞと言えれる信心。巡りのお取り払い頂いて有難いと言えれる信心。だからそういう信心を私は頂かせて貰う。四十二節とある四十二節と言う事は、死にと言う事になる。そこで昨日の朝の御理解の反対じゃないけれどもです。どうしてこの様な事が起こってくるかという様な思い方は、もうおかげが死んでしまうのだ、そこでおかげが留まってしまうのだ。だからお互い信心させて頂きよっても、どの位おかげをですね。
いわば封鎖してしまうと言うか、おかげをいわば反対に、向こうの方へ押しやっているか分からない。おかげを受けさせてくれいと言うから、神が立ちあがって本当のおかげにしてやろうと、神様の働きが始まるともうこの位で、よございますと言った様な事を言うと仰る。だからそこん所を矢張り元気な心で信心して行き、所謂それもです今も申します様に、どういう中にあっても、おかげと思わなければおられんほどしのおかげが必ずある。その周辺にある。良くその周囲を見て見ると。
そういう信心をです。愈々見に付けさせて貰い、愈々末広の所謂新栄商事である。新しく栄えて行く、そのポイントになる所の私はご理解である、み教えであると四十二節を今日は、そういう風に頂きました。そこから頂けれるおかげこそが、肝心要の所が出来てから、そこから末広に広がって行く。だからこの調子この信心を頂いてさえ行けば、おかげが受けられるという、確信に満ちた信心生活が出来れるおかげ。そう言う事を今日は、四十二節から頂きましたですね。
どうぞ。